陰徳積みと吉相墓による開運のサイトです。陰徳積み、有縁無縁供養塔、地蔵尊影奉流などのご案内

水野南北小伝

南北先生は大阪(当時浪花と言う)に生まれましたが、幼小の頃は父母と死別して親族で育てられた不幸な人でした。
幼名は不明です。両親の愛を知らずに育った孤児の成り行きとして、不良化するのは別に珍しい事ではありません。
南北先生も十才の頃から酒を覚え、金が手に入ると酒を買っては呑む毎日で。その結果、酒代を得るために悪事に手をそめ投獄されることも度々ありました。
十八才の頃、酒代のために悪事を働き捕えられて入牢した時、牢内でふと気付いた事がありました。それは入牢してくる罪人たちと、娑婆で働いている人たちとの相貌に著しい相違がある事です。この差を感じた時から相学に興味を持つ様になりました。

やがて出牢したある日のこと、人相観に己の顔や手の観相を乞うたところ、「貴男は一年ほどの間に剣難で死ぬ相が現れている」と言われました。驚いた南北先生は、その足である禅宗の寺へ行き、坊さんになりたいと願い出ました。
しかし、寺の坊さんは「坊さんの修行はなかなか難しく苦しいものである、貴男がこれからの一年間、麦と白豆だけの食事を続けたならば入門を許し弟子にしてやろう」と言われました、それを聞いた南北先生は、好きな酒もぷっつりと絶ち、浜仲仕をしながら麦と白豆だけの食事を続け、一年後には見違えるほどの逞しい体付きになりました。

但し荒くれ仕事の中では度々派手な喧嘩もあり、時には身体中傷だらけになる事はあっても命には別状がありませんでした。そんなある日、以前に観相を乞うた人相観を訪ねると「ウンンン」と唸った観相家は「険難の相は不思議になくなっている、お前はその後何か大きな功徳をしたであろう、例えば人の命を助けたとか困っている人を救ったとか、または神社仏閣の修繕の助力などをしなかったか」と尋ねました。
南北先生は「別に人の命を救ったことはないが、ある坊さんの教えによって食事を麦と白豆だけにしている」と言うと、観相家は「食事を節する事は大きな陰徳積みである」と教えました。

以後、南北先生は観相を研究するために名古屋に出て風呂屋の三助となり、湯の中の裸体を見て人相を研究しました。
また、ある時は火葬場(昔から真宗は火葬の習慣がある)の隠亡人夫になって相学を研究し、遂に観相の奥義を極めました。
先生が観相をする時、相手を裸にするのはこの時の研究の結果です。

死ぬまで米や餅類を一切口にせず、少年の頃から呑んでいた酒も一日に一合とし、他には麦一合五勺以外は口にしませんでした。当時は京、浪花はもとより江戸からもわざわざ観相を乞う人が名古屋の宅に集まるほどで、八十余才まで長寿を全うされました。
京都の藤井佐兵衛氏が名古屋での南北先生の葬儀に参列した時、一町四方の広大な屋敷内には蔵が数棟もあったと藤井氏の子孫が伝え聞いています。

文化九年三月、本屋京都藤井佐兵衛氏署名の出版本の一部に「南北先生は弱年より相法を好み、事実によって人の未だ知らぬ理を極め相法の一流を起こす、相業世に行われると言えども、先生の相法は至って下賎にして野人の如し、この故に衆人名を聞き来って会うといえども先生の下賎なるを見て真の南北と称せず、又田舎へ行くといえどもその名と人物と合わざるを以て衆人大いに疑う。この故に災難を受ける事ままあり、是によって以後の疑い災難等を免れんためにこの像を現す、先生弱年の頃相法修行のため指頭を焼く、今左の小指にその跡あり、又手の両肘に受刄の跡あり、この遺跡と像とを以てこの後先生を疑う人あらず、相比べ疑いなからしめんがために今ここに像を現して以後の便利となす、なお、よく相比べ知るべし」と書いてあります。
これにより想像しますと下賎の相があった様に思われます、この本の中には南北先生の肖像画が掲げられています。


結論として水野南北先生の教えの要点は、如何なる善相良運健康な人であっても常に美食をし十二分に食事をしたならば悪相となり凶運短命となる。如何なる悪相凶運病弱の人でも、口にする物を節し食事を八分水を二分、合計十分にする人は良運となり健康長命となる、という事です。













| ホーム | 徳風会とは | サイトマップ | 個人情報保護方針 | 資料請求・お問い合わせ | 
徳風会の歴史
初代竹谷聰進先生
陰徳と墓
有縁無縁慰霊塔
地蔵尊奉流と放生会
水野南北小伝

聰寿会のご案内
徳風会パラオ戦没者慰霊塔
「良縁クラブのご案内」へ

徳風ネット 徳風新聞へ

「吉相墓」入門へ

「WebShop徳風出版」へ


「松山徳風会」へ

「大黒山東泉寺」へ

「株式会社 亘 徳」へ

「株式会社 倉元家石材商店」へ

「株式会社 宮口石材商店」へ

「柿本鳳祥堂」へ

「株式会社京都光仙堂」へ

「株式会社 徳風會・祭祀研究所」へ